どうも、佐々木(@moto_ssk)です。
最近は毎日ブログを書いてることもあり、ブログを書くことが習慣化してきました。
習慣化することで、思考の仕方も随分と変わってきました。
ブログとnoteの更新を継続してると、
・それするとどんないいことがあるか
・誰が嬉しいのか
・なんで他の人はやらないのか
みたいな問いが脊髄反射的に出てきては一時保存を繰り返すようになる。
これって何かに即効性があるわけじゃないけど、何かをトリガーに芋づる式に頭の中へ引っ張りだされる。— 佐々木基之 (@moto_ssk) September 9, 2018
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実は以前も「毎日ブログを書く」を目標に取り組んでたことがあったんですね。
しかし、そのときはネタが尽きてしまい、早々に諦める(続かない)結果になりました…
まあ「ネタが尽きた」という時点で、書くことが目的になってるので、続くわけがないんですよ。
書くことが目的になると、当然のことながら続きません。
なぜなら、手段が目的化してしまっているので。
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手段が目的化すると、なぜ継続できないのか?
その答えはシンプルで「なんのために継続してるか?」が見えなくなるからです。
見えないもののために頑張ることは相当しんどいです。だって「迷子」ですから。
書くことが目的になった瞬間、タイピングの進みが極端に悪くなる。それは「なんのために書いてるか」の迷子になるから。迷子になれば集中力も切れてくるし、何より迷子なので、動けば動くだけ疲れやすい。
— 佐々木基之 (@moto_ssk) September 10, 2018
「何を書くか」や「どう書くか」に思考を蝕まれすぎると、スキマスイッチの『ボクノート』のように、12時間経って並べたもんは空欄のエディタになっちゃいます。
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「何を書くか」や「どう書くか」というのは、もはや表現の領域なんですよね。
作家さんや画家さん、音楽家さんの作品をみればわかるように、彼らには世界観があり、その世界観を表現しているわけじゃないですか。
これをブログに置き換えて考えると、世界観というのは執筆者の思考ですよね。
ということは、表現を気にする前に、もっと自分の思考と向き合った方がいいなと気づきます。
僕はこれに気づけたことで、自分の思考と向き合うようになりました。
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文章に思考が反映されるだけで、旨味も切れ味も増しますし、その人の脳みそを垣間見たような感覚になり、読んでておもしろいですよね。
小手先の表現を磨いても、所詮だれかの踏襲にしかならんのです。
それよりは自分しか持ってない「思考」をしっかり磨いていく方がいいなあと思いませんか?
そう、『ボクノート』の最後の歌詞にあるように。
ありのままの僕を君に届けたいんだ
探していたものは、目の前にあった