テクノロジーの進歩によって便利になったモノやコトは様々あります。
例えば「お風呂を沸かす」。五右衛門風呂の時代は、お風呂を沸かすためにまず薪を集め、火を焚いて、火を保つために再度薪を投入し、と工程も費やす時間も多かった。自分も経験ありますが、結構しんどかったです…
それが今や給湯ボタン押すだけ。本当に便利です。ところが、「便利さ」は「考える機会」を奪ったと警鐘している記事も見かけます。お風呂の例をとれば、五右衛門風呂の時代はその他の家事もほぼ手動ですから、全て完了させるにはどんな段取りで動くか、相当頭を使って考えながら1日を過ごしていたと想像できます。(習慣になっていたと思うのでそこまで意識してないかもしれません)
では、給湯ボタン一発世代は本当に「便利さ」に「考える機会」を奪われたのでしょうか?
現代の「便利さ」の多くはツールによってもたらされるものが多いと思います。炊飯器、洗濯機、冷蔵庫、自動車、スマホ、などツールを手に入れてしまえば、これまで自分で頭を使って考えたり、手を動かしたりしていたことをツールに任せることができます。
ツールを手に入れるためにはお金が必要です。自分で作る場合も材料を手に入れるにはお金が必要です。これは、お金があれば「便利さ」は手に入ると表現することもできます。「便利さ」を手に入れると、それ以前では気づけなかったことに気づけるようになりますよね。掃除機だって、今はコードレスだったり、掃除機自身が掃除エリアを決めるなど、「便利さ」を更に追求しています。
個人的に、「便利さ」は「考える機会」を奪ったわけでなく、新たな「考える機会」を作ったと思います。
確かに、給湯ボタンの登場で「お風呂を沸かす」工程を考える(知る)機会はほぼなくなったと思います。
お風呂に入ることだけにフォーカスすると(つまり使い手の立場であれば)知らなくて全然問題ない。むしろ、費やしていた時間を大きく削減でき、他のことに時間を回すことができるようになりました。
「便利さ」により時間を得たことで、その時間をどう使うかは個々人の自由になりました。自由なので、何もしないも当然ありです。しかし、この自由な時間の過ごし方が自分自身に直接かえってくるようになったと思います。さらに、SNSなどの進歩により自分が何をして過ごしているかもオープンになり、他者からどう見られているかも数値化されるようになりました。
「便利さ」は自由時間を何して過ごすか?という新しい「考える機会」を作ったと思います。
「考える機会」を奪った正体は慢心じゃないかと思っています。このやり方でいいとか、自分は正しいはずとか、そういう慢心が「考える機会」を奪っていると思います。奪っているというか、自ら手放していると思います。
マスメディアが流している話を鵜呑みにしたり、検索結果の上位に出てきたものを鵜呑みにするとか、自分で何かしなくても「便利さ」によりモノやコトが手に入るがゆえに、そこに慣れてしまう。”普通”とか”常識”とか”世間一般”を疑うことすらしない。そういう状態はまさに考えず、ただ流れている状態ではないでしょうか。
「便利さ」を否定しているわけじゃありません。自分もめんどくさがりなので、やらなくていいことはしたくないです。便利がいいに決まってます。ただ、便利であるがゆえに、自分で問いを立て、考えるという思考を持たないと簡単に流されてしまうのではと思っています。
「考える機会」は奪われたんじゃなく、自ら手放しているんじゃないか?
「便利さ」によって作られた、新たな「考える機会」を活かして自分は何かしようとしているか?
まさに自分自身ハック。