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「○○世代」ラベリングの本質はテクノロジーへの順応性

「○○世代」の本質は人間性のラベリングではなくテクノロジーへの順応性

どうも、佐々木(@moto_ssk)です。

土曜深夜にNHKで放送されている「ニッポンのジレンマ」って番組ご存知ですか?

テーマが「世代論のジレンマ大研究」だったのでしばらく議論を見てました。

番組を視聴して、「○○世代」ってラベリング自体、大して意味を成さないという感想を持ちました。

番組途中からの視聴だったのですが、議論の概略は以下のとおり👇(番組HPから引用)

さまざまな名称で語られる「世代」。かつても「団塊」「シラケ」「新人類」などさまざまな言い方で、いつも若者たちは一括りにされてきた。それは単なるレッテル貼り?それとも日本社会の変化の中、必然性があったのか?「ゆとり」「さとり」のゲストたちが胸中を明らかにする。

こちらの図もあわせてどうぞ。

世代論の話とは言うものの、全体的に議論がふわふわしていて「○○世代」と人をラベリングすることって大して意味ないなと。それよりも僕が思ったのは「○○世代」というラベリングの対象はテクノロジーなんじゃなかと思ったんですね。

三種の神器、携帯電話、インターネット、スマホ、AIと、時代背景と密に関わってくるテクノロジー。このテクノロジーの変革期がひとつ世代の括りになっていて、時代が進むにつれて、テクノロジーによる価値観のアップデート頻度が高まっているんだと思うんですね。

要は、テクノロジー順応度が高いかどうか、がことの本質ではないかなと。

最近だと「副業解禁」など働き方が多様化していると言いますが、これもテクノロジーの恩恵だと思うんですね。インターネットの発展で、PCさえあれば仕事ができますよね。

個人がお金を稼ぐ仕組みもテクノロジーによって多様化していますし、ブロックチェーンを活用していけば、今後ますます、現時点では存在しない働き方や職業は増えていくでしょう。

このとき、どうしても多様な働き方をする人にフォーカスがあたりますが、本質的な部分はテクノロジーなんじゃないかと。人がどう、世代がどう、とかじゃなく、順応できるかできないか

そういうことを考えながら視聴していたので、パネリストのひとりが「多様な価値観を認め合うことができるようになった」と言っていたことも少し違和感なんですね。

認め合うとかそういうことじゃなくて、テクノロジーによってマイノリティが顕在化、表面化してるんだと思うんです。個人的に、誰が何しようと興味ない人が大半だとも思ってるのでなおさら。

「サピエンス全史」の著者、ハラリ氏も番組内のインタビューで語っていましたが、

技術は世界を変えていくが、唯一できないのは『何も変わらずにいる』こと

これを踏まえると、ダーウィンの進化論じゃないですが、順応していくには、テクノロジーを自分のために使うという意思の主導権が欠かせないのかもしれません。