ロボットは東大に入れるか?という「東ロボくん」プロジェクトに関する記事を読んで、日本人は読解力が低下した代わりに文字情報を絵として捉えるスキャン力が高まったんじゃないかというブログを書きました👇
この考えはあながち間違ってないのかもと。
というのも、AIは文章の意味を理解することが苦手なのですが、日本人の多くがAIと同じような文章の読み方をしているというんです。『AI読み』とは一体どんな読み方でしょう?
「東ロボくん」プロジェクトで知られる新井紀子氏(@noricoco)のインタビュー記事がおもしろかったです👇
新井氏いわく『AI読み』というのは、
キーワードを拾って、○○という言葉が出てきたらこんなもんだろう
という、ぼんやりした捉え方をする読み方だということです。「○○のうち」とか「○○以外」などの機能語を正しく読み取ることができていないため、文章を正しく理解することができない。
AIはいくつかのキーワードで検索するので、まさに同じような読み方です。
新井氏の記事を読んで「読めないというのは致命的だ」という感想を持ちました。
読めないというのはあらゆることに影響します。例えば、免許を取ろうにも学科試験がありますし、日常生活では契約書や取扱説明書、など文章を読む機会はめちゃくちゃあります。
新しく何かを学ぶときはマニュアルを読むことも多くなります。プログラミングをするときもマニュアルを読んで使い方を学びます。読めないことは新しいことを学ぶときの大きな障壁になります。
僕は小学生のころ、国語が著しく苦手でした。特に苦手だったのが「筆者の気持ち」を答える問題。
「筆者の気持ち」なんて本当にわかるのか?筆者にインタビューでもしたのか?と屁理屈ばかり頭に浮かんでは、自分の感想を答え、そして大いに間違えていました…
問題に正解できないということは「読めていない」ということでもあります。
同じ文章を読んで正解する人もいれば、不正解の人もいる。まさに『リーディング格差』が発生しているわけです。小学生であれば1問3点、5点の微々たる格差かもしれませんが、大人ともなれば何年、何十年の積み重ねです。
そしてインターネットは「リーディング格差」を拡大させる方向に力が働きます。
リーディング格差は自分の生き方を決めるだけのインパクトがあります。
小学生であればテストという形で自分の読解力をはかることができます。
でも大人になるとなかなかはかる機会がないですよね?僕はそういう意味で読書会はかなり意味があると思うんですよね。同じ本を読んで自分はこう感じた、一方で別の人はこう感じてる。それが同じかどうかよりも、どこまで読み解いているのか?を知れる。
読書会は自分の読解力を表面化させるる上でとても重要なツールだと思っています。
それに読解力が低いとコミュニケーションすらまともに取れませんからね。
新井紀子氏の著書「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」はこちら👇