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SNSでの「虚飾の自分」はウソと一緒でいつかバレる

虚飾はいつかバレる

どうも、佐々木(@moto_ssk)です。

昨日Twitterを見てたら、山田ズーニーさん(@zoonieyamada)のツイートが目にとまりました👇

山田ズーニーさんは文章表現インストラクターとして活動なさっている方です。

ほぼ日刊イトイ新聞にて「おとなの小論文教室。」というコラムを執筆していたり、『あなたの話はなぜ「通じない」のか』や『おとなの進路教室。』など数多くの著書も出版なさっています。

ズーニーさんが言う、『やっちゃいかん』の基準って何だろうと気になったんですね。

ズーニーさんのコラムを読んで感じたのが「SNSは表現作品のひとつ」ということ。

表現作品というと高尚な感じがします。

僕の場合は実名、顔出しでSNSを使ってるので、「SNSから受ける印象=そのまま佐々木の印象」が成り立つんですね。

まあ実名、顔出しでなくとも、自分が何を書いてるかで印象は決まりますよね。

そう考えると「SNSくらい自分の好きなこと好きなように書きたい」にどこまで素直になるか?

ひとつ言えるのは、いくら投稿を消しても、投稿した事実が消えることはないということです。

だって、スクショ撮られてたら、そのスクショを消して回らない限り事実は消えませんよ。

ズーニーさんの「おとなの進路教室。」には、今回の話に通じる一節が出てきます。

自分を説明する言葉は増えた。

でも、素の人間力はどのくらいついた?

SNSなので見栄を張ることはできます。できますが、所詮、虚飾の自分ですよね。

虚飾なので、演じるために無理を伴いますし、無理はいずれ歪みを生みます。

要は、「ウソはバレる」ってやつですね。

自分が作った偶像に無理やり自分を当て込もうとして、身動きも鈍くなります。

ズーニーさんの言葉を借れば、素の人間力としっかり向き合うことを疎かにしないがベターです。

そして、その上で、どこまで自分のことを素直に書くのか?

これはプログラミングと一緒で、正解はないですし、ある意味その使い方が正解でもあります。

事実としてあるのは、発信した情報は受信される(受け手がいる)、ということです。

受け手を意識すると、「受け手はこの情報を見たときどう思うか?」と考えることができます。

僕はnoteやMENTAを始めたことで、「WHO」への意識がより高まりました。

  • こういう情報を発信してる人のnoteを買ってしまった…
  • こういう情報を発信してる人に相談してしまった自分が恥ずかしい…

僕と関わることが「後悔」や「恥ずかしい」になると、その人自身の評価まで影響を受けます。

「WHO」を大事にすることを疎かにせず、自分と向き合い、何が提供できるか?

これを考えてSNSを使うことを、僕は「窮屈」だとは感じません。

自分と向き合いたい、自分の強みや弱みはなんだろう?と悶々とする方は、ズーニーさんの「おとなの進路教室。」を読んでみることをオススメします📖