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【無意識の整え方】深刻になりすぎず「これでいいのだ」と思う

無意識と仏教

今回は【無意識の整え方】に収録されている無意識を整える4つの対談の中から、
2つ目の「仏教と無意識」を取り上げて整理していきたいと思います。
(1つ目の対談「合氣道と無意識」についてはこちら。)

自分は今回の「仏教と無意識」の対談をきっかけに宗教について学びたくなり、現在宗教に関する書籍を読んでいるところです。

宗教は人の無意識を整えるツールなのかもしれません。

「わたし」も含めすべてはご縁で成り立っている

「わたし」という存在については宗教毎に様々な解釈の仕方があると思いますが、仏教においては幻想に過ぎないそうです。(「いない」とは言っていない)

では「わたし」とは何なのか?

仏教では「わたし」は空(そら)のようなもので、実体はないんだけどあらゆるつながりの中にあると理解するそうです。

華厳経というお経の中に「インドラの網」というものが出てきます。インドラの網と呼ばれる網の結び目には宝石が結び付けられており、「わたし」は個々の結び目のようなものだそうです。網を構成する「ひも」を「縁」と捉えると、「わたし」という存在は縁と縁の結び目に仮に成り立っていると。

すべてはご縁で成り立っているということです。

宗教が持つ二方向の機能

現代思想家のケン・ウィルバー氏によると宗教は二方向の機能を持つそうです。

  • 水平方向の機能=トランスレーション(翻訳、物語化)
  • 垂直方向の機能=トランスフォーメーション(変容)

99.9%の人が求めるのは水平方向の機能だそうです。

なぜなら、人生=「わたし」の物語だからです。「人生がうまくいってない」と悩んだり、不安になるときは自分自身の物語の意味を見失っている状態らしいです。

宗教には神話などを通して人間が求める普遍的な物語があります。人は人生の意味を見失ったとき、宗教という大きな物語によって自分自身の物語の意味を回復させるそうです。この回復作業こそが物語の翻訳作業であるということです。

垂直方向は自己変革です。個人の物語からより大きな物語への移行を指します。

ジョブズも実践していたコーリング

トランスレーションやトランスフォーメーションの具体的な方法のひとつが「念仏を称える」ことです。実は念仏は「称える」だけでなく、同時に「聞く」ものでもあるそうです。英語ではコーリング(calling)と呼ぶそうです。

念仏を通して、誰が、誰に、何を呼びかけているのか?

実は浄土真宗において、そのあたりは宙吊りなんだそうです。
というのも「わたし」という存在は幻想なので、称えている「わたし」も、聞いている「わたし」もないわけです。つまり念仏は「AでありBでない」という二元論ではなく、非二元論であり、念仏者による解釈で構わないというポジションです。

スティーブ・ジョブズは毎朝、鏡を見て「今日が人生最後だとしたら、今日やることは本当にやりたいことだろうか」と自問自答していたという話がありますよね。

まさにコーリング。自分と対話することで人生の意味を考えていたのかもしれません。

まとめ

禅に「前後際断」という言葉があります。前のことと後ろのことを連続して捉えるのでなく、今を大切にしなさいという意味です。

仏教からすると「わたし」は幻想なので、そもそも連続って発想自体がないわけです。過去に起きたこと(実績)も、同時のあらゆるご縁によって起きたと捉えることができます。ということは、無理に過去と今と未来をストーリーにする必要はないと解釈することもできますよね?

すべて縁により成り立っているなら、起きることにいちいち深刻になりすぎず「これでいい」と思えばいいんじゃないかなって。

今やりたいことに素直になっていいんじゃないですかね。個人的にそう思いました。

次回は3つ目の対談である「森と無意識」について整理します。では。